国際通りの歴史|「奇跡の1マイル」はどうやって生まれたか
那覇のメインストリート、国際通り。全長およそ1.6キロ(約1マイル)のこの通りは、戦後の焼け野原から驚くべき速さで復興したことから「奇跡の1マイル」と呼ばれました。今は土産物店と食堂が並ぶ観光の通りですが、その足もとには何層もの歴史が重なっています。
「国際」という名前の由来
意外に思われますが、この通りの名は国際交流や国際色に由来するものではありません。戦後まもなくこの通り沿いに開館した映画館「アーネスト・パイル国際劇場」が、名前のもとになりました。当時の人々が「国際劇場のある通り」と呼んだのが定着し、やがて通り全体の名になったのです。
劇場そのものは現存しませんが、映画館とまちの文化がつながる感覚は、今も桜坂劇場に受け継がれています。1952年開場の芝居小屋を前身とし、閉館の危機を地元有志が救ったこのミニシアターは、国際通りかいわいの文化の記憶そのものです。
「奇跡の1マイル」と呼ばれたわけ
沖縄戦で那覇の市街地はほぼ壊滅しました。戦後、人々が少しずつ戻り、露店や闇市が立ち、そこから短期間で商店街が立ち上がっていきます。その復興の速さが「奇跡」と呼ばれました。
その闇市の系譜をいちばん濃く残しているのが、まちぐゎー(市場)エリアです。
- 第一牧志公設市場 … 戦後の闇市から続く「那覇の台所」。建物は2023年に建て替えられましたが、人の集まる場所としての役割は変わっていません。
- 平和通り・市場中央通り・太平通り商店街 … 露店から始まった商店街が、アーケードに覆われて今の姿になりました。
- のうれんプラザ … 戦後の「農連市場」を引き継いだ市場。観光地化されていない、生活の市場の空気が残ります。
歩き方の実際はまちぐゎー(市場)の歩き方にまとめています。
戦前の那覇の記憶をたどる
国際通りができる前、このあたりはどんな場所だったのか。まちなかには、それを伝える史跡が点在しています。
- 那覇駅跡 … かつて沖縄本島には軽便鉄道(通称・ケービン)が走っていました。1914年開業の那覇駅がその起点。沖縄戦で破壊され、戦後復活することなく消えた鉄道です。現在のゆいレールとは直接のつながりはありません。
- 崇元寺石門 … 琉球国王の位牌をまつった寺院の跡。建物は戦火で失われましたが、琉球石灰岩の三連アーチの石門と石垣が残り、国の重要文化財に指定されています。
- 久米至聖廟跡(孔子造像) … 久米村の学問所と孔子廟があった場所。戦火で焼失し、現在の久米至聖廟は戦後に別の場所で再建されたものです。
- 新修美栄橋碑 … 久茂地川に架かっていた美栄橋の歴史を伝える石碑。モノレールの駅名の由来にもなった橋の物語です。
さらにさかのぼれば、那覇はかつて「浮島」と呼ばれる島でした。埋め立てが進んで本島とつながった今もその名は残り、浮島通りという通りの名として日々使われています。
焼け残らなかったものと、残ったもの
沖縄戦は那覇の街をほとんど焼き尽くしました。だからこそ、残ったものの価値がひときわ大きいのがこの街の特徴です。
壺屋やちむん通りは、その象徴と言える場所。琉球王国時代に窯場が集められて以来のやきものの町で、戦火をくぐり抜けた石畳と、新垣家住宅のような陶工の伝統的な住まいが残っています。国際通りの喧騒から徒歩数分でこの静けさに出会えることが、那覇という街の重層性をよく表しています。
まちの記憶を伝える形は、史跡だけではありません。那覇大綱モニュメントは、琉球王国時代から続く「那覇大綱挽」にちなんだもの。毎年10月、国際通り周辺は今も祭りの舞台になります。
歴史を意識して歩くと
同じ通りでも、「戦後ここに露店が並んだ」「この駅から汽車が出ていた」と知っていると、見えるものが変わります。国際通りを端から端まで歩くのは20分ほど。その20分に1世紀分の物語が折り重なっている、と思って歩いてみてください。
あわせて読む
- まちぐゎー(市場)の歩き方 … 闇市から続く市場エリアの実際の歩き方。
- 壺屋やちむん通りの歩き方 … やきものの町の歴史と現在。
- 久米・中国文化さんぽ … 琉球と中国のつながりをたどる半日コース。
- 国際通り西側・建築さんぽ … 現代の那覇を建築から読む視点。
※史跡の説明や公開状況は変わることがあります。最新は各スポットページや現地の案内板でご確認ください。
国際通り徒歩圏にホテルが集まっています。夜のまちぐゎーも楽しむなら県庁前〜牧志エリア泊が便利です。
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